ブランドデザイン : 株式会社折紙 / ORIGAMI INC. | 沖縄 – 東京

2017-10-06

ブランドデザインの抽象度設定

日本語は世界1ハイ・コンテクストな言語と言われます。一方、世界1ロー・コンテクストな言語はドイツ語だとも。これは日本では割と定着している、アメリカの文化人類学者の唱えた説で、個人的には「そんなもんかな」とも思いますがどこか釈然としない気もします。ハイとかローとか言ってますが、言語的な優劣の話ではありません。端的にはハイ・コンテクストは抽象的で透明性が低く、ロー・コンテクストは具体的で透明性が高いとされます。余談ですがそんなハイ・ロー極端な両国が第二次大戦では枢軸国側の軍事同盟関係であったというのも何だか不思議な感じです、この説に従えば作戦の意思疎通に苦労しそうですが。私見なら、結局はどの言語も抽象と具象をTPOや知的水準に合わせて使い分けており、総じて「ハイorロー」という単純な評価は出来ないということだと考えています(どちらが色濃く映るかという文化由来の加減や後先の違い)。

昨今の映画を観ていると、ひとつの言葉や台詞、シーンに構造的な意味を豊かに含ませているのは、よほど海外(特に欧州・中東)の映画のようにも見受けられ、日本人はボディランゲージや表情が控えめな分、言葉やスラング、ポピュラーで安直な表現に寄りかかっているようにも捉えられます。未だに世界の映画関係者が小津安二郎や黒澤明を絶賛し、韓国のポン・ジュノが「殺人の追憶」を世に送り出した際には「黒沢の後継者が韓国に生まれた」という自嘲気味の宣伝文句が躍りました(しかし映画を観れば確かに納得します)。もしかすると日本人は言語の抽象性を駆使できるほどの精神の抽象性を少しずつ失わせてきたのかもしれません。仮にそう考えるのであれば、抽象理解≒知性となりますし、文化や芸術、思想・哲学、多様性、国内外情勢、政治、経済、文脈、情緒等々を有機理解するハイ・コンセプトな層は一握りのイノベーターとその次のフォロワーに絞られます。直ちにボリュームゾーンとはなりません。

ブランドデザインにおいてブランドの抽象度の見極めは、重大なディレクションでありチューニングです。例えばローカルなのかナショナルなのかアジアなのかグローバルなのか、目指すスケールや対応するリソース、環境や状況の変化、フェーズの踏み方や移行期間、はたまたコモディティなのか機能なのか品質なのか情緒なのかビジョンなのか、総合的な洞察と戦略に基づいてポジショニングとマネジメントを描かなかればなりません。ダイソンとピアジェは同じグローバルですが抽象設定は真逆です。Nボックスとレクサスでは同じ商品カテゴリでもスケール・抽象設定は全く異なります。地元の特産品とエルメスを同列に語り“焼き印”のルーツなど持ち出すのはナンセンスの骨頂です。一般的に抽象設定が高いと(繰り返しますが高低は優劣ではありません)佇まいは洗練され、スケール感を持つ展開にフィットしますが、ブランドの実体を評価したときに、そのポジションに顧客は存在しないか顧客の受信できない周波数ならば、ブランドはそのまま息絶えてしまいます。

ローカル完結のコモディティブランドが抽象度を上げすぎるとほぼ例外なく苦戦します。苦戦を見越した(長期戦に耐えうる)資金の準備や調達の術があるのなら周到な計画はその内に実を結ぶかもしれませんがレアケースです。リ・ブランディングならば現在の顧客を戸惑わせずに、緩やかな段階を踏みながら移行後の抽象度設定に感応する潜在顧客を特定し時間軸も踏まえた包括的なブランドディレクション、マネジメントを実施する必要があります。ブランドの抽象度設定には冷徹とも言えるブランドの実体や実力への査定が欠かせません。実体・実力に見合わないアプローチや計画が頓挫するのは奇跡でも起こらない限り摂理のようなものです。ブランドデザインに取り組む現場はどうしても理想や楽観が勝ってしまう雰囲気に覆われますが(それもまた尊いものですが)、そうすると大抵、抽象度設定を見誤るのです。縮こまる必要はありませんが、シビアなシミュレーションと「機を読む力」も同時に意識しましょう。

 

 

 

 

 

 

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