2017-04-12

伝統工芸は「用の美」から解放されては 2/2

もちろん「用の美」自体に懐疑的な意図はなく、むしろ誇らしいのです。この短い言葉には日本語の良さや面白さの構造がありますし、隙がなく端正なコピーです。ただ伝統工芸や手仕事をそっくり包含するコンセプトのようにこれを理解してしまうのは、対象にリスペクトし過ぎる日本人の奥ゆかしさでもあるのでしょうが、ルールには新たなオリジナルルールをぶつけてみる(それが一見稚拙でも)のを当然とするメンタリティの外国人とはアウトプットされるものが違いすぎます。日本でクラフト販売を仕事にする人たちが最初に先輩から手渡されるのが柳宗悦の本というのは珍しくない話で、ショップの書棚にはディプロマのように誇らしげに置かれていたり。

また、伝統工芸的なモノ・手仕事・クラフト・温かみのあるプロダクトの市場が活況の割に、職人や作家・工房は一向に所得が上がらない、それどころか単価が下がり作業ばかりに追われているという話も聞こえてきます。流通に問題があるならば適正に変えていくしかないのは自明ですが、創造のための再投資もできない疲弊した現場に、ただでさえ労働人口が減少する社会にあって若手や後継者が来てくれる筈もなく、それがどんなに貴重な手仕事や気高い精神であったとしても、「効用の見えない仕事に人生を掛けるわけにも行かない」という素直な態度なわけです。行き着くところは携わる事業者がそれぞれに利益の取れる価格設定にして、これが実際に持続的に売れていくことを実現しなければならないというテーマ。そのため、あの手この手で付加価値をデザインしたり、異分野と組み合わせたり、ブランドづくりに試行錯誤したり、海外市場への展開を試みたりというプロジェクトが立ち上がっています。

「用の美と機能美」「デザインとアート」「質素と耽美」「職人と作家」「造作と無造作」「生活と劇場」etc。伝統工芸や手仕事と言われる、ざっくりした枠組みの中に、あまりに多様な要素や指向がごった煮にされていますが、この枠組みのベースにある価値基準のレイヤーになぜか「用の美」が横たわっているように思えています。先述ですがそもそも「用の美」は目的ではなく評価のコンセプトですので、あまりにこれが必要条件のように囚われるとモノづくり自体も大人しく小さくなってしまいます。生活になくても困らない嗜好品を相応の値段で売ろうとなるとプロダクト自体が固有の世界観や文脈を体現していることが重要です。プロダクトを通じてその背景にある世界観と文脈にこそお金を払い、結果的にモノを所有するわけです。日本の手仕事は生真面目で品質も高い、なのに新しい世界観や文脈のコンセプトやプレゼンテーションが抜け落ちているように感じられます。その大きな要因のひとつに「用の美」があるとすれば、この意識から解放されて自由になる必要があります。

ひとつのアイデアとしては「用の美」をひとつのオプションと位置付け上手に運用するという考え方です。消費者の欲する時代の気分に合わせた優しげな対応も悪くはありませんが、それだけでは陳腐化は避けられません。労働人口も経済規模も(激しく!)縮小に向かう日本からインバウンド需要や海外市場への展開も組み合わせたポートフォリオは自然な流れ。「用の美」と大胆不敵な世界観が同居することで強烈なコントラストが生まれ、豊穣な文脈のプレゼンテーションを可能とする、こうしたアプローチは日本のクラフトにしか取れないポジションだと思います。そして、どうしても避けられない視点が「撤退戦をどう凌ぐか」という議論です。日本全国に息づく美しい伝統文化を失わせずに残していくのは残念ながら困難でしょう。技能者が高齢で後継者が不在となれば、産品や産業、産地がごっそり消滅します。ある日突然お手上げとなるのは避けたいところ、公金での支援や保護も限界があります。付加価値や展開を産もうとする一方でいつか誰かが再生できるよう“文化の冷凍保存”のために、最先端のテクノロジーを活用する方策やアイデアも検討が急がれるところです。

 

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