2017-04-01

伝統工芸は「用の美」から解放されては 1/2

伝統工芸品は生活になくても困らないし、そのほとんどの機能は工業製品や規格製品に代替されるわけです。そんな中、沖縄だけではなく、全国的に伝統工芸品的なモノ(一緒くたでゴメンナサイ)の売れ行きは好調なんだそうで、多くは元々の産品を(出口側から)アレンジしたものやコーディネート、リデザインされたものという印象です。老舗の本店や生産工房に赴いて繰り返し購入するというのはごく一部の気合の入った趣味人や、或いは生来人生に組み込まれている仕来りや道だったりする人。以外の大半の人はセレクトショップやライフスタイルショップ(汗)でキュレーションされた、そのショップのプレゼンやパッケージが購入動機となっている感じでしょうか。「丁寧で上質でミニマルで賢い暮らし方を選択できる私」というファッショントレンドのアイコン、アイテムとして伝統工芸品的なモノがポジションしている様子。

バブル(痺)時代の過激な消費行動やその後の制御不能な情報社会、モラルが追いつかない技術革新、希薄で温もりに欠くコミュニティ等への中和カウンターとして伝統工芸品的なモノのアナログや人間味ある表情が不穏な時代の空気を丁度うまく吸収している風にも見えるわけです。今、モノ自体は動いているとなれば、そこには誠実な事業者だけでなく、機を逃すまじと単に売れ筋ウォッチャーのようなプレイヤーもそりゃ加わります。伝統工芸品的なモノに限らずですが、何にしてもファッションならば揺り戻しは避けられないですし、無闇な供給が続けば有りがたみも薄れます。すでに模倣品や粗悪品だって混在するでしょう。「本物が評価されない社会」と嘆く前に、何か根本のところを理解しなければ。もともと生活に欠かせないものではなく、情緒的なマーケティングが時代の気分に受け入れられた結果ですから(身も蓋もない言い方で恐縮ですが)産地や工房・職人と向き合う誠実な事業者ほど「このままじゃマズイぞ」と危機感に身構えるはずです。

私も百貨店をぷらぷらしてて南部鉄器の急須なんかを見ると思わず手が伸びますが、家族の反応がチラついてそっと元の場所に戻したりします。個人的に欲しいモノは一見無駄でも贅沢な質感のある嗜好品、機能は二の次、そばに居て繰り返し感性に働きかけてくれるようなモノ、それらの醸す風景です。「用の美」という言葉は、柳宗悦さんが発明した言葉でして、詳しくお知りになりたい方は氏の著書でもお読みになると良いかと思いますが、これが実に日本人の感性にマッチした言葉だと思うわけです。「侘び寂び」や「禅(Zen)」、「清貧」などと並ぶ日本人的振る舞いのハイコンテクスト。大いなる免罪符。「用の美」というバイブルを面と向かって突きつけられると畏れ多くて議論など許される雰囲気ではありません。でもこれ、作り手はそんな大層なこと考えていないようにも思うんですよね。揺るぎない基準やルール、マナーにしているのは(無意識でも)むしろ出口側の人たちで。巨匠柳宗悦だって「用の美」に適ったものを作らせたわけではなく、すでにあるものを探し見出し再評価しています。コンセプトのないものにコンセプトを与えたわけです。さらに言えば、時代感として弱者への眼差し、困窮している者への同情、民俗的な好奇までも含まれているように感じられます。決してバウハウスではありません。豊かな社会の日本人(或いは欧米人)が東南アジアやアフリカの少数部族の手作りした飾りや日用品に惹かれるのに少し似ています。

2/2へ続きます。

 

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